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:::mido :::

考える。心の中をぶつぶつと整理。思ったことや感じたことを、撮りだめ、書き留めていく場所、伝える場所。

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いい学生?悪い学生?教育はどのようにアルバイトの選択へ影響するのか。

【日記】

昨日の夜は、哲学星期五(哲学金曜日)という毎週金曜日というイベント?へ行ってきた。私は、「哲学金曜日」というイベントは台湾発のものだと勝手に思い込んでいたのだけれど、昨日パンフレットをみていると、フランスパリの哲学カフェというものが起源だそうだ。「哲学」とか「討論」って聞くと、なんだか「偉い」先生やら研究者の人がきて、難しい話しを永遠としそうなイメージや、「いい大学」とか「エリート」と言われるような学生達が集まっているようなイメージが湧くこともあるが、自分たちの生活にとても身近なテーマだったり、参加者も高校生からおじいちゃん世代まで、歳も職業もいろいろな人が参加している。毎週参加している人や通りすがりの人、友達に誘われて…など参加者は毎回毎回異なるようだ。始まる前に、必ず自己紹介を参加者全員したり、質問タイムの他に自分の意見や感想を発表できる時間と空間があるので、普通のみんなが前を向いてじぃーっと誰かのお話しを聞いているような講演会より、ちょっと脳みそが動いている感じがして楽しいと私は思っている。

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昨日のテーマは、「いい学生?悪い学生?教育はどのようにアルバイトの選択へ影響するのか。」というテーマだった。そのテーマにとても惹かれてどんな話しをするのだろう…と思い参加してきた。三人の講演者は、それぞれ私立大学の学生と卒業生で、数種類のアルバイト経験を語っていた。彼らは、それぞれ大変なアルバイトもあったけれど、学校では学べないことや経験できないことができたからよかったと話していたり、自分は社会や人にとても興味があるので、コンビニやドリンクスタンドのバイトは「意味のないこと」とか「単純だけど大変で低賃金の仕事」と言われるが、人を観察できることがとても楽しいと話していた。テーマの「教育はどのようにアルバイトの選択へ影響するか」へ対して、彼らの話す内容はダイレクトにではないけれど、「教育」と「アルバイト」の関係性やそれを取り巻く問題を表している様な気がした。

彼ら三人の話しは、話しの80%以上の時間を、自分の今までのアルバイト経験を話しているという感じだったのだけど、彼らの中の一人の女の子が話しの冒頭で、自分は中学高校と勉強はあまりできなくて、学校では「悪い学生」(素行とかそういうことではなく、出来損ない的な意味)という風に扱われてきた。大学も、そんなに「いい大学」ではないし、点数などでみたら下の方に位置すると語っていた。そもそも、成績やテストの点数で人の「いい」「悪い」を決めるというものへ対して、私自身違和感と抵抗感が溢れているのだが、このような判断方法は紛れもなくこの社会に存在している。そして、あらゆるところへ影響している様に思う。台湾だけでの話しでは無い気がするのは、日本にも似た様な状況があるように思えるからだ。例えば、有名大學の学生は家庭教師や塾のバイトなど比較的高賃金で数時間で、他の学生の一日分またはそれ以上のバイト代を稼ぐことが可能だ。低賃金のアルバイト者は、働いても働いても、比較的高賃金で働く学生との経済的格差を縮めることは難しいのではないだろうか。それに、低賃金であればあるほど、働く時間数を増やさなければならないので、自分の自由な時間や、何か他のことをする時間と体力、気力が失われることもある。私も、高校のときや大学に入ってから、数種類のアルバイトをしたので、アルバイトの経験がいろんな意味で社会経験になったり、学校や本では学べない様なことを学べる機会であるということは分かっているつもりだ。だけど、私がひっかかるのは、成績や学歴がいわゆる「いい」かどうかで決められたものによって、はじめからスタートラインが異なっていくことや、そのスタートラインが異なることで生じる、経済的格差や学びの格差などをなかなか縮めることができないサイクルだ。高校三年間、自由の森での学校生活では、点数や成績という安易なものさしで人を「分類」してしまう世界から遠い遠い場所に居た。そんな環境はとても居心地がよかったし、上手く言葉で言い表すのは難しいのだけれど、何かの為の自分ではなくて、自分が自分でいるような感覚だった。そして、もし「ものさし」を使っていたら見えなかったような誰かのいいところや得意なこと、意外となにかできること、一人一人のすごいとこ、逆に嫌なことや悪いこと、などいろんな事が無限大に見えてきた。
でも、一歩外の世界へ出た途端に、またもや点数や成績、学歴、職歴、というものさしで人の価値などを決める社会へ向き合うことになってしまうのだった。
私がそんなものはどうでもいいと思っていても、ある時ふっと無意識のうちに、そういうものに流されそうになったり、押しつぶされそうになっていたりすることがとても怖いし気持ちが悪い。「いい」「悪い」ということを、何かの標準的数値や名前等で判断することはとても簡単だ。だけど、そこから、何が生まれるのだろうか。「いい」「悪い」のように、なにかを仕分けていくことやそのような環境は、損得勘定や競争する力はどんどん育まれていくだろうけれど、自分の頭で考えることや、自分の言葉でなにかを語り合い、いろんな人と共有すること、はっきりとした答えが無いこともこの世の中にはたくさんあるということなどを、見過ごしてしまったり見失ってしまう様な気がする。そんな生き方は、なんだか寂しいし味気ないと私は思う。そして、そんな生き方は、経済発展や国の成長だけを優先し、命が大切にされず、現在進行形で命が踏みにじられていっている今の日本の状況とどこかで繋がっている様に思うのだ。成績や学歴がいわゆる「いい」かどうかで決められたものによって、はじめからスタートラインが異なっていくことや、そのスタートラインが異なることで生じる、経済的格差や学びの格差などをなかなか縮めることができないサイクルへの疑問や違和感はなかなかなくならないし、まだまだすっきりしない。だけど、そのサイクルがなにか偶然ではなく、意図的に存在している様な気がしてならない…。