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考える。心の中をぶつぶつと整理。思ったことや感じたことを、撮りだめ、書き留めていく場所、伝える場所。

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ゆきゆきて、神軍

 

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水曜日の夜、「ゆきゆきて、神軍」という映画をみた。なんということばを使って良いか分からないほど、とにかく「強烈」だった。よっぽどの衝撃だったのか、見終わった日の夜、夢にまで出てきてしまったではないか。なぜか、奥崎謙三が私に乗り移り、私がひたすらいろんな人の所を尋ねっていっては、「戦争責任」を問い続けていた…。

「いい」とか「わるい」とかそういうことではなくて、ドキュメンタリーだけれどドキュメンタリー映画にみえない、だけど生々しい、力強い、二時間あるけど30分ぐらいに思えてしまうほど勢いがあるような、ドキュメンタリー映画だった。見終わった時に、「あぁ…」となぜだかわからないけれど、圧倒されてしまう作品に久しぶりに久しぶりに出会ったような気がする。昭和の映画のフィルム独特の色合いや空気感、そしてなんだか分からないけれど圧倒されるあの「謎の力」。あの力は、一体どこからくるのだろうか。

 

主人公の奥崎謙三が戦後、かつて戦時中に自らが所属したニューギニアの部隊で、隊長による部下射殺事件があったことを知り、殺害された二人の兵士の親族とともに、処刑に関与したとされる元兵士や上官たちを訪ねて、真相を追い求めていく…。

戦争について、漠然と恐怖感があった。だけど、なにがこわいのかなにが悲惨でなにが惨いのか、それはとても漠然とモヤモヤしていたものであった。それに、学校で語られる歴史は、「やったこと」よりも「やられたこと」にどちらかというと重点が置かれている気もしていた。例えば、戦争中は防空壕に逃げたこと、疎開したこと、食べ物が無かったこと、原爆が落とされたこと。どれも私にとって怖いことだ。だけど、もっと怖いこと、それは、「やったこと」の歴史だ。

高校生の頃、韓国で、元「日本軍慰安婦」のハルモニの話しを聞いたり、植民地時代のことを知るおじいさんの話しを聞きに行った。それは、教科書の数行では語られていない歴史だ。私は、その時、「自分は漠然と戦争が怖い、嫌だと思っているけれど、戦争の怖さを全然知らない…」と自分自身に恥ずかしさや怒りが込み上げてきたのだった。

 

この映画では、学校では決して教えてくれない生々しく残酷で悲惨な戦争の状況が語られていた。終戦になったのにもかかわらず軍の上官の命令で殺された兵士2人の話がでてくる。当時衛生兵だったというおじいさんは、はじめ「40年も前のことやから覚えてへんわ」といっていたが、「食べるものもなく人肉を食べた。という話。原住民の人は黒豚。白人や日本兵は白豚と呼んでいた。」と語りだした。そして、おそらくその二人も食べられたということも。

ニューギニアの奥地で包囲され 、食べ物も無く、困窮したした状況の中で、遺族が語るように、若い下っ端の兵から殺されて食べられていった、その映像が流れているわけではなく、「記憶」を頼りに語られる話しが、あまりにも生々しく、驚愕したのだった。

だけど、一つ気になるのは、「記憶」についてだ。奥崎謙三は、元上官や兵士を訪ねて行くのだけれど、みんなそれぞれバラバラなことを話すのだ。ある人は、「自分はいなかった。」ある人は、「覚えていない」、またある人は、「語れない」と話す。生きていて、そうそうそのような地獄のような絵図らを経験することはほとんどないだろう。だとすれば、忘れてしまうことは可能なのだろうか。また、訪ねて行くなかで、指示を下したと言われる元上官の名前があがった。彼のところを訪ねると、飄々と「自分は、その場にいなかった」と話す。指示を下したのは彼なのに、どうしてだろう。そうしなければ生きれなかったのかもしれない、どうしようもないのかもしれない、だけど、指示を出す立場にいたのならばそれは理由にならないし、明らかに戦争犯罪として裁かれるべきではないだろうか。「ゆきゆきて、神軍」の前に観た、「東京裁判」というドキュメンタリーをみて、あの裁判は誰の為に何の為のものだったのだろうかと疑問に思ったけれどここでもその疑問が少しあった。

名前を変え、生きている彼の中で、「その頃」の記憶はどう形成されているのだろうか。嫌な記憶、消したい記憶、都合が悪い歴史、自分の中で都合良く再形成されたりすることはあるのかだろうか。なんだか、この映画を見て、戦争の惨さとは別に、「記憶」ということがとても気になった。

 

今、「平和」という言葉が利用され、憲法をこわされそうになっている。悲惨で残酷な歴史に向き合うのではなく、まるで何にもなかったかのように、政府、大手メディア、教育、人々は、また同じような道を突き進もうとしているように思える。

 

「戦争」をするとは、普通の人が、何も感じなくなるということ。名前も知らない誰かを殺してしまうこと。「狂気の沙汰」が、慣れてしまうと、なんともなくなってしまうこと。自分が殺されることは、もちろん怖い。比べられないような恐怖の中で、敢えて比べるのならば、もっとこわいこと、それは、自分の友達や家族、未来のこどもが、名前も知らないどこかの国の誰かの大切な命を奪ってしまうかもしれないということだ。

 

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ゆきゆきて神軍 YukiyukiteShingun (introduction) - YouTube